源平争乱期における騎馬連隊の移動速度

鎌倉時代の移動速度について、前掲した榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく』(吉川弘文館)に沿ってまとめると、飛鳥井雅有という公家にして蹴鞠の達人が四十歳の時に京都から鎌倉に向かった徒歩での旅に要したのは十三日で、「一日に進む距離は三十二キロから四十キロ程度」でした。

なお、緊急の知らせを運ぶ早馬は、宿場ごとに馬を乗り換え、夜を日に継いで駆け続けると「最短で三日、多くの場合は四~七日で京都から鎌倉に達した」そうです。

これに対して完全装備の武者を乗せた騎馬が隊列を組んで進む場合の速度は、元暦元年八月に源範頼が一千騎を率いて平家追討使として西海へ赴いたとする『吾妻鏡』の記述から計算してみます。八月八日の午の刻(正午頃)、稲瀬川に桟敷を構えて見物する頼朝に見送られて鎌倉を発った範頼軍は、同月二十七日に入洛したとあり、移動に二十日を要したことになります。

成人男子の軽装での徒歩旅で十三日の旅程を騎馬隊列では二十日、つまり一.五倍の日数が必要になると分かりました。

重装備で戦場に向かう武者の移動に欠かせない乗り物である馬は、「戦場におもむく軍馬の場合は、大鎧一式・武器・鞍・人間を合わせて九十キログラム以上の重みがかかる」(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社学術文庫)わけですから、自動車のように休みなく走り続けることは不可能で、途中何度も休憩し、水や飼い葉を与えて馬をいたわる必要があります。また一頭の馬に乗り続けるのではなく、ひとりの騎馬武者に対して一、二頭の換え馬を用意して、休憩ごとに乗り換えるのが通常でした。こうした事情により、騎馬隊列は徒歩の一.五倍の日数を必要としたのです。

さらに行軍を遅らせる原因となるのは道幅です。榎原氏によれば、東海道のような幹線道で、よく整備された区間でも、せいぜい幅六~八メートルだったそうです。整備の行き届かない区間や峠越えの山路などはその半分程度でしょうから、騎馬隊列は長い一列縦隊になって進むしかありません。

先述の範頼軍は八月二十七日に入洛したのち、二十九日に追討使の官符を受け取り、九月一日に西海へ出陣しています。中三日の滞在については兵馬を休ませる意味もあったでしょうが、全軍が揃うのを待って交名を提出し官符を受け取ったとすれば、先頭集団の範頼が到着してから最後尾の部隊が追い付くまでに一、二日は要したとも考えられます。一千騎もの兵が一列縦隊で休み休み行軍するのですから、一日で全軍の到着が完了しない場合もあるでしょう。これは出発時にもいえることで、一千騎の最後尾は翌日に出発したとしても不思議ではありません。

幕府軍が奥州藤原氏を攻め滅ぼした奥州合戦では、全国の御家人に動員をかけて鎌倉に集結させた大軍は、三手に分かれ東海道、中道、北陸道を通って進軍しました。承久の乱でも幕府上洛軍は東海道、東山道、北陸道の三手に分かれて京を目指しました。これらも大軍を短期間に移動させるには、街道幅の制約から経路を分散させる必要があったと考えてよさそうです。

さて、鎌倉時代の道と移動速度の考察はこれくらいにして、俣野軍の甲斐国出兵に関する考察に戻りましょう。

(公開日:2023-07-22)