平家軍撃退の功労者は誰か

吾妻鏡』には勝ちいくさの描写に具体性を持たせる編集方針が随所に見られます。これには武功を記録してその名誉を讃えることで、一族に後々まで主君への忠誠心を呼び起こす狙いでしょう。また、武名を歴史に刻めていない武士たちの功名心を掻き立たせる効果も期待できます。

ところが後に行われた波志太山合戦における論功行賞では、勝利したはずの工藤庄司景光は頼朝に対し「忠節を尽くした事を言上した」(治承四年十月十八日条)と、苦しいアピールをするにとどまります。弓を使えない敵をさんざん射殺したはずですから、もっと具体的に首をいくつ取ったなどと主張できたはずなのに、ただ頑張りました(忠誠を尽くした)としか言えなかったのは不思議でなりません。

そうなると波志太山合戦において安田軍で軍功を挙げ、歴史に武名を刻んだのは、敵の弓弦を噛み切った野ネズミだけということになります。波志太山に暮らす野ネズミさんたちにはたいへん名誉なことに違いありませんが、人間の武勇伝が出てこない奇っ怪な記述が堂々と『吾妻鏡』に刻まれている事実をどう解釈すればよいでしょうか。

すぐに見抜かれる見え透いた嘘を書いた『吾妻鏡』編者の真意は、言外に敗戦を匂わせたかったとしか考えられません。つまり、波志太山合戦に勝ったのは俣野・橘連合軍だったのです。そう仮定すれば、この合戦後に安田軍が甲斐国へ引き返した理由も理解できます。

『吾妻鏡』には、安田軍は石橋山合戦の報を聞いてから出陣したとありますが、安田義定の領地安田郷は現在の山梨県山梨市小原西とされますから、二十三日夕刻から始まった石橋山合戦の報が届くのに、小田原から河口湖畔まで徒歩で二日、そこからさらに山梨市まで一日として都合三日はかかるので、二十六日に知らせを受け取ってから出陣したのでは、二十五日に始まった波志太山合戦には到底間に合いません。

甲斐国安田郷から波志太山まで騎馬連隊の移動は丸一日以上は要しますから、二十五日の日中に合戦が始まったとするなら、遅くとも石橋山合戦が始まった二十三日には出陣したはずです。そうすると、安田軍は何の目的で領地を離れ、遠路富士山北麓まで南下し、もし俣野・橘連合軍に敗れていなければ、どこへ向かうつもりだったのでしょうか。

ここで本記事の第二の謎「なぜ北条時政は甲斐国を目指したのか」の答えが見つかりそうです。有力な手掛かりは、安田義定に同行したとされる工藤景光、行光父子の存在です。

(公開日:2023-08-13)