大庭・橘両軍はいつ出兵したのか

伊豆国で挙兵した反乱軍への迅速な対応により、甲斐源氏軍と仲綱残党軍の連携を阻止する功績を挙げた橘国衙軍は、うっかりすると山木館襲撃の報を受けて出兵したと考えがちですが、騎馬兵の行程を検討すれば、それは現実的ではないと理解できます。

山木兼隆が殺害された知らせは、夜襲のあった翌十八日の夕刻には三島の伊豆国府へ届けられたでしょう。平清盛へ急を知らせる書状がしたためられ、十九日早朝に京へ向けて飛脚が旅立ち、東海道を行く途上で駿河国府の橘遠茂にも報じられたと思われます。

ところで、九条兼実の日記『玉葉』に伊豆国での謀反の噂が記されたのは九月三日と先に紹介しました。成人男子の徒歩による鎌倉から京までの行程は十三日ですから、三島~鎌倉間の二日を差し引くと、三島から京までの所要日数は十一日となります。

十九日に三島を発った飛脚は、十一日後の二十九日夕刻には京に着く計算ですが、実際には二日遅れて九月二日に到着し(八月は小の月で二十九日)、三日の日記に記されました。また、「山塊記」に記された新田義重の飛脚は、八月二十八日に上野国を発ち九月七日に京へ至ったとありますから、こちらの東山道ルートでは九日の行程です。この二件は徒歩による普通便だったと思われます。

なお、『吾妻鏡』には「石橋山合戦の事を報じた(大庭)景親の八月二十八日の飛脚が九月二日に入洛した」(九月二十九日条)とあり、鎌倉と隣接する景親の領地(現、神奈川県藤沢市大庭)から京までの行程は四日となりますが、『玉葉』九月九日条に石橋山合戦の顛末を報じた飛脚が九月六日に到来したとあり、おそらくこちらが景親の送った飛脚でしょう。『玉葉』九月三日条には反乱軍が官軍に撃退された旨は記されていないので、『吾妻鏡』が「九月二日に入洛した」とするのは、伊豆国府からの第一報を景親の飛脚と取り違えたと思われます。そう仮定すると、景親の飛脚は八日の行程となり、早馬で最短とされる三日には及びませんが、徒歩ではなく伝馬を使ったと考えられます。

三島から駿河国府までは徒歩で丸二日を要しますから、伊豆国目代暗殺の急報は、二十日の夕刻に駿河国府へ届けられたと推定できます。同じ二十日に仲綱残党軍は橘軍と遭遇して黄瀬川宿から退却したとする本記事の主張に従えば、橘軍は山木館襲撃の報が届く前に出兵していた計算になります。騎馬による行程は徒歩の一.五倍ですから駿河国府から三島までは三日、つまり十八日には出陣していたはずです。

同じ行程計算を大庭軍にも行ってみます。十九日早朝に三島の国府を発った飛脚は、景親の所領大庭御厨の館(大庭城)に二日後の二十日夕刻に到着します。ところで俣野軍は二十二日には富士山北麓を目指し小田原付近にあった大庭軍の陣を出発していますから、丸子川(酒匂川)西岸まで兵を移動するのに使えるのは二十一日のみとなります。丸子川から鎌倉間は徒歩で一日の行程、騎馬隊列なら一.五日となりますが、ぎりぎり一日で移動できなくはありません。

しかし大庭、俣野といった主力部隊は急報を受けて直ちに出陣できたとしても、石橋山合戦が起こった翌二十三日の時点で相模、武蔵の武将ら「平家被官の者三千余騎」が石橋山の近くに陣取っていたわけですから、近隣の武将らに出兵を促す書状を届けるのに要する日数に加え、あまり軍に乗り気ではない彼らが出陣の準備を整えて移動を完了するまでの日数を考慮すれば、山木館襲撃の知らせを受けた二十日から二十三日までに全軍を小田原周辺に集結させるのは不可能です。やはり伊豆国での挙兵が実行される以前に、大庭軍は軍事行動を開始したと考えるべきです。

つまり大庭・橘両軍は伊豆国の反乱とは無関係に甲斐源氏を討伐する目的で出兵したところ、行軍中に期せずして伊豆反乱軍に遭遇したと考えられます。

伊東祐親については、甲斐源氏討伐に動いた大庭・橘連合軍への参加は見送ったものの、伊豆国内の反乱分子については見過ごすわけにもいかず出兵したと考えられるので、山木館襲撃の報を受けての行動開始だったと見てよいでしょう。時政らの不穏な動きを認識していたはずの祐親は、伊豆国内に張り巡らせた独自の情報網により、十八日中には目代暗殺の報を受け取ったでしょうから、翌十九日に出兵すれば、二十日に北条館を制圧していても不思議ではありません。

(公開日:2023-10-01)