安全だった土肥郷

石橋山合戦に敗れた源頼朝と北条時政は、箱根神社の宿坊に匿われて一夜を明かした後、八月二十五日に土肥郷(現、神奈川県足柄下郡湯河原町)へ向かいました。その後の二人の動向を追跡しましょう。

まずは敵方の包囲網について確認します。『吾妻鏡』の八月二十六日条は、大庭景親が渋谷重国の館を訪ねて交わした問答を記します。重国は相模国の武将で、平家に背いた咎で近江国の領地を追われた佐々木秀義の一族を食客に迎え、二十年もの間生活を援助してきました。領地の渋谷荘は現在の神奈川県大和市下和田、綾瀬市早川あたりとされます(『吾妻鏡必携』吉川弘文館。以下の比定地は特に断らない限り同書より引用)。

秀義の子息定綱ら四兄弟は以前から流人頼朝に仕え、山木兼隆館襲撃から石橋山合戦まで頼朝軍の主力として戦いました。景親が源有綱追討の命を受けて東国へ下向した際、重国に長田入道の書状を読み聞かせ、佐々木兄弟に対する警告をしたことは、前に紹介しました。景親の居館が在った大庭御厨と重国の居館が在った渋谷荘は南北に隣接する位置にあったので、二人の武将は緊密な関係にあったのでしょう。

石橋山合戦直後の二十六日に重国のもとを訪ねた景親は、佐々木四兄弟は平家へ叛逆した罪人なので、彼らを捕らえるまでの間、妻子らを監禁すると言います。これに対し重国は、自分はあなたの要請に応じて石橋山へ出陣したのに、その功を考えず、私の客人を差し出せという命令には従えないと、気骨のある返答をして景親を追い返します。

当時の武士の領地内は完全な治外法権だったので、何人たりとも領主の許可なくして勝手な振る舞いはできません。重国が駄目だと言えば、いくら平家の威を借る景親でも引き下がるしかないのです。重国自身は平家に臣従しているのに、客人に迎えた一族の若武者が敵方の軍勢に加わることについて、「彼らが旧好を重んじて源氏のもとに参上するのを制止する理由はありません」と語るのも、当時の武士の価値観を知るうえでたいへん興味深いのですが、それはさておき、平家方の軍事行動に注目しなければなりません。

頼朝と時政が土肥郷へ向けて移動した翌日に、景親は重国の渋谷荘を訪れているわけですから、この時点で平家軍による頼朝の捜索は終了し、全軍には三浦党の立て籠もる衣笠城(現、神奈川県横須賀市衣笠町)攻めに備えた移動命令が出されていたと分かります。箱根方面から大庭、渋谷の領地までは少なくとも一日の行程ですから、この問答がなされた前日の二十五日に移動を開始し、二十七日に大庭軍は「数千騎を引き連れて三浦に攻め寄せ」ました。伊豆国から遠征してきた伊東軍に対しては、二十五日に領地への帰還許可が下りていたでしょう。

これらの状況から、二十五日以降の土肥郷は平家軍から攻撃される危険は遠のき、領主である土肥実平の居館に入った頼朝たちは比較的安全だったと考えられます。もっとも土肥郷に潜んでいることを察知されれば直ちに追っ手を差し向けられるはずですから、ぐずぐずしてはいられません。彼らは船を調達して安房国への脱出を試みます。

一方、畠山ら秩父党の連合軍に衣笠城を攻め落とされた三浦党も、夜陰に紛れて城を抜け出し、船での脱出を果たします。そして頼朝たちと三浦党は安房国での合流を果たすのですが、この間の出来事を記す『吾妻鏡』にはいくつか気になる点が認められます。

(公開日:2023-10-28)