安房国渡海にまつわる疑問

敵兵の去った土肥郷に集結した頼朝たちは、土肥実平の館で安房国渡海の計画を入念に検討したでしょう。従って二十七日に時政、義時父子および岡崎義美、近藤七国平らが安房国へ向けて出航した船団に、頼朝と実平は同乗せず、翌二十八日に別途小舟を調達し後を追ったのは、何かしら確たる理由があったはずです。

時政ら武将たちが乗った船は「海の上で船を並べて行くうちに」と『吾妻鏡』に記されますので、複数の船からなる軍用船団だったことが分かります。海に面した土肥郷を支配する実平は、多くの随行兵や馬を乗せられる大型の軍用船を複数用意できる水軍を所持していたのです。

そして指揮官不在の状況で軍用船団が運行されるとは考えられませんので、同乗しなかった頼朝は、この時点ではまだ軍の指揮官ではなく、仲綱残党軍を源氏軍と称するために担がれた名誉職に過ぎなかったことを示しています。船団は指揮官である時政の号令下、安房国へ向かったのです。では、なぜ頼朝は別行動をとったのでしょうか。

頼朝と実平を乗せた船は二十九日に「安房国平北郡の猟島に到着された。北条殿(時政)をはじめとする人々がお迎え申し上げた。」とありますから、あらかじめ上陸地点を決めたうえでの別行動だったわけです。同じ所へ上陸するなら同じ船で行く方が効率的なので、敢えて軍団だけを先行させた理由の手掛かりは、出航した場所が異なり、また頼朝の乗った船が「小舟」と表記されることに見いだせます。

『吾妻鏡』の原文(国史大系本)を見ると、時政たちの乗った船は「舟船」と表記され、出港地は「土肥郷岩浦」とあり、一方の頼朝と実平の船は「小舟」と表記され、出港地は「土肥眞名鶴崎」となります。馬も乗船できる大型船を「船」、小型船を「舟」と書き分けていたと考えるなら、先発隊は武将と馬を運ぶ大型船および随兵たちを乗せた小型船で編成された船団となります。

頼朝の乗ったのは、おそらく漁に使用する小型船で、平家方に怪しまれぬよう、漁船に擬して航行したと思われます。同乗したのは実平の他に漕ぎ手が二、三人くらいだったでしょう。時政たちは一日で土肥郷から安房国へ渡りましたが、足の遅い小舟で岸近くを航行する頼朝たちは、途中相模湾の浜で一夜を明かし、丸二日かけて安房国に到着しました。

出港地については「土肥郷岩浦」は現在の神奈川県真鶴町岩と推定されます。ここは現在でも岩漁港として利用される良港で、当時から大型船を停泊させる土肥水軍の拠点だったのでしょう。一方、頼朝の使った「土肥眞名鶴崎」は現在の真鶴港あたりで、民間人の所有する漁船の港だったと思われます。軍船の母港である岩浦とは別の港から出港した理由は、漁船を調達するためだったのです。

頼朝だけ一日遅れで出港した理由はさまざまに考えられますが、時政ら伊豆国の武将たちにとって安房国は人脈も土地勘もないので、上陸地点の安全確保に万全を期すため、兵を先発させたのだとしておきます。

ちなみに真鶴港の貴船神社近くにある岸壁に、頼朝が身を隠したとされる、椙山とは違うもうひとつの「しとどの窟」の伝承地があります。本記事の主張では、頼朝が訪れた時には土肥郷は安全だったので、わざわざ窟に隠れる必要はなかったと考えますが、この近くから頼朝が小舟で漕ぎだしたという言い伝えが存在し、そこから「しとどの窟」の伝承が派生したのかも知れません。

頼朝を乗せた小舟は、幸い敵に発見されることなく無事に安房国へ到着し、先発した時政らの出迎えを受けます。その後の行動を追う前に、安房国での合流を果たした三浦党の足取りも確認しておきましょう。

(公開日:2023-11-05)