躍動する三浦党

頼朝の上陸した安房国平北郡猟島は、有力な武士団の支配が及ばない空白地だったようです。時政らは安房国に割拠する武士団のどこが敵対する意思を持つか分からなかったので、安全を優先して猟島を選んだと考えられますが、早急に支援者を見つけて安全な地へ兵を移動させる必要がありました。

そこで頼朝は、安房国住人の安西景益に「在庁官人らを誘って参上せよ。また、安房国で京都から下ってきた輩は、ことごとく搦め進めよ」という書状を送ります。景益は幼少期の頼朝に仕えた縁者であり、三浦氏の一族でもありましたから、最初に打診すべき武将だったのです。その所領は猟島にも近い浦賀水道に面した現在の千葉県館山市八幡付近と推定されます。おそらく三浦党の者が使者として向かい、隣り合う現在の南房総市府中にあったとされる国府の制圧に手を貸したのでしょう。

頼朝たちの居た猟島から見て南方の安西、安東(現、千葉県館山市安東付近)、神余(現、千葉県館山市神余付近)は三浦一族の領地だったので、すぐに敵対勢力は襲ってこないと判断した指揮官時政は、安西景益の参上を待たず、上総国埴生郡玉前(たまさき)荘(現、千葉県長生郡睦沢町大谷木付近)にあった上総広常邸(高藤山城)へ兵を移動させます。上総一宮(玉前神社)のある玉前荘は太平洋側に位置しますから、兵は房総半島を横断する道を進むのですが、途中で通る安房国長狭郡(現、千葉県鴨川市)を支配する長狭常伴は「志を平家方に寄せていたので、今夜(頼朝の)御宿所を襲おうとしていた」と、油断したところを衝かれます。

この危機を救ったのは三浦義澄でした。三浦の一族は房総地方の情勢に通じ、おそらくは独自の情報網を有していたのでしょう。長狭軍の動きを事前に察知した義澄は迎撃の兵を向かわせ、常伴を撃退しました。三浦党との合流がなければ、頼朝らは討ち取られていたかも知れなかったのですから、老将三浦義明の「頼朝をたずねよ」という遺言は千金に値するものでした。

危ういところで命拾いした頼朝のもとへ、召喚していた安西景益が一族の者と在庁官人を二、三人伴って参上しました。襲撃を受けた翌日の九月四日のことです。景益は、まだ長狭常伴のような平家方の武将は多くいるので、兵を移動させるのは危険だと伝え、まず使者を出し、相手の意思を確かめるため迎えに来させるのはどうかと進言します。これを受け入れた頼朝らは景益の館へ向かい、そこから和田義盛を上総広常、安達盛長を千葉常胤のもとへ使者として派遣し、兵を引き連れて迎えに来るよう命じます。関東随一の兵力を誇る広常は由井浦の小坪坂合戦に加わった金田頼次の兄ですから、関係の深い三浦党の義盛は使者として適材でした。ここでも三浦党の人脈は大いに生かされます。

ところで、三浦党の活躍にすっかり影の薄くなった指揮官時政は、この後どのような行動に出たでしょうか。

(公開日:2024-01-04)