千葉常胤が頼朝に見たもの

仲綱残党軍の指揮官たる北条時政は、安房国上陸後も平家打倒の初志を忘れていません。その証拠に時政は三度目となる甲斐源氏との接触を試み、八日に安西景益邸を出発しました。時政は伊豆国の同胞を率いて甲斐源氏と共に平家を打倒する気満々で、頼朝に従う兵力が増えるのならそれに越したことはない、くらいの意識でいたはずです。

上総、千葉の両軍が頼朝に帰参するかどうか不確かな状況での出発ですから、頼朝がどれだけ私兵を集められるかは未知数です。その成果に左右されるよりも、早く甲斐源氏と合流する方が得策と見たのでしょう。この甲斐国行きは無事に達成されるのですが、それが時政にとって良かったのかどうかは、また別の話です。

ちなみに『吾妻鏡』では、頼朝が時政を使者として甲斐国へ派遣し、信濃国の平家方に対する軍事行動を命令したと記しますが、多くの研究者はこれを曲筆だとします。時政が甲斐源氏の陣に到着したのは、武田・一条軍が信濃国の平家方である菅冠者を滅ぼして甲斐国へ凱旋した後だったので、たしかに辻褄は合いません。挙兵初期の甲斐源氏はあくまでも独自に軍事行動を展開したと考えるのが通説ですので、その解釈に従って本記事も書き進めていきます。

さて、仲綱残党軍の指揮官が不在となったのを見計らったかのように、安達盛長が下総国から戻り吉報をもたらします。千葉常胤は盛長が頼朝から預かった口上を聞いても、しばらくは言葉を発しなかったと言います。不審に思った子息らが、早く同意する書状を書くべきだと述べると、常胤はこう答えました。

『心の中では、承諾することに全く異議はない。源家が中絶した跡を興されようとするので、感激の涙が止まらず、言葉にすることもできないほどなのだ』。その後、酒宴となった折に、『今いる(頼朝の)居所は取り立てて要害の地ではありません。また源氏ゆかりの地でもありません。早く相模国の鎌倉にお向かい下さい。常胤は、一族郎党を率いて、お迎えの為に参ります。』

どうして唐突に鎌倉へ向かえと常胤が進言したのでしょうか。もし常胤が頼朝を自分の居館(千葉荘、現在の千葉市)に招じ入れ、河内源氏嫡流という貴種を養君として独占したのなら、日本初となる武家政権は鎌倉ではなく千葉に樹立されたかもしれません。

鎌倉行きをめぐる疑問については、上総広常の動向も含め、坂東武士の当時置かれていた状況を踏まえて検討する必要があります。常胤が感涙にむせんだとするのは大袈裟な表現のようにも思えますが、頼朝の行動を「平家打倒」ではなく、「中絶した源家の再興」と認識(曲解?)し感激した点は非常に重要です。衣笠城で討ち死にした三浦義明もまた「私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時にめぐりあうことができた。こんなに喜ばしいことがあるだろうか」と語っています。かつて義朝に従った関東の武将にとって、源家(貴種)再興こそが最大の関心事だったのです。

(公開日:2024-01-11)