なぜ鎌倉だったのか

千葉常胤が頼朝に鎌倉へ向かうよう進言した理由は、簡潔に言ってしまえば、かつて鎌倉の館に居住し関東の覇権を握った頼朝の父義朝の役割を継承してほしいという願いでした。鎌倉入部に込められた常胤の真意を理解するには、義朝の残した関東での事跡を知る必要があります。そこで少し回り道となりますが、『源氏と坂東武士』(野口実、吉川弘文館)、『河内源氏』(元木泰雄、中公新書)を参照して、石橋山合戦よりはるか以前の関東各地に盤踞した武士たちの様相をたどってみます。

義朝は河内源氏嫡流為義の長男として保安四年(一一二三年)に生まれますが、嫡子にはなれず上総国に下向して上総常春ないし常済に養育されました。廃嫡されたのは、義朝の母が白河院近臣藤原忠清の娘であり、父為義の仕えた摂関家藤原忠実と白河院に確執があったからだと推測されます。

下向当初、義朝は上総国の熊野山領畔蒜荘(千葉県君津市・袖ケ浦市・木更津市のあたり)ないし摂関領菅生荘(千葉県木更津市)で少年期を過ごします。その後、相模国武士団三浦党の当主義明の婿となり鎌倉の館に居住し、永治元年(一一四一年)に長男義平を儲けます。鎌倉の館は義朝の高祖父頼義が相模守に任じられ赴任した際、桓武平氏貞盛流の嫡流直方の婿に迎えられ鎌倉の屋敷、所領を譲らたことにより東国における河内源氏相伝の地となっていましたが、歴代の河内源氏棟梁は京武者として活動しましたから、鎌倉に常駐したのは義朝からだと思われます。

鎌倉に居を構えた義朝は、摂関家(忠実、頼長)との主従関係を梃子に、いずれも摂関領の庄司だった三崎荘(神奈川県三浦市、横須賀市)の三浦氏、早河荘(神奈川県小田原市)の中村氏、波多野荘(神奈川県秦野市)の波多野氏を配下に収めます。波多野氏とは婚姻関係を結び、次男朝長を儲け、中村氏の娘は義朝、頼朝二代の乳母となりました。石橋山合戦で頼朝にぴったり寄り添い、窮地からの脱出に多大な貢献を果たした土肥実平は中村党の武将です。

ここまでの義朝は、武門源氏庶流によく見られる生き方です。中央政界に顔が利く貴種性を生かして在地武士(豪族)と婚姻関係を結び、京との関係を保ちつつ、地方に領地を獲得して土着していくのです。甲斐源氏や新田氏、足利氏、佐竹氏などは、そのように地域に根ざした生存の道を歩みます。

ところが義朝は相模国に土着して鎌倉氏の始祖となる生き方をよしとせず、もっと高い地位を志向したと思われます。具体的には、自身の所領拡大よりも地域勢力(相模国、下総国、武蔵国、上野国など)の領地や家督をめぐる紛争に介入し、権力者とのコネを利用し調停役を務める代償として主従関係を強要し、関東全域へ支配権を拡大します。その先には、弟に奪われた河内源氏嫡流の地位を奪還する野望さえ見ていたのかも知れません。義朝の野蛮きわまりない紛争介入の実態を事例に則して見ていきましょう。

(公開日:2024-01-11)