平治の乱後の関東勢力図

保元の乱の三年後、平治元年(一一五九年)に勃発した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、敗走中の尾張国内海荘(現、愛知県知多郡美浜町)で家人の裏切りにより命を落とします。長男義平、次男朝長も相次いで亡くなり、同母弟の頼朝と希義は、それぞれ伊豆国と土佐国へ配流され、常盤の所生による幼い今若丸(全成)、乙若丸(義円)、牛若丸(義経)は仏門に入れられます。

河内源氏の嫡流だった義朝一族が壊滅状態となり、義朝という支配者を失った関東は、在地武士間の抗争が頻発するかつての姿に逆戻りします。

上総氏の家督を父常澄から継いだ広常は、平家と結んだ庶兄の伊北常景、常仲父子や印東常茂との家督をめぐる抗争に巻き込まれ、治承三年には国守(上総介)に任命された平家方の伊藤忠清が広常を抑圧する動きを見せるなど、苦しい状況に追い込まれました。

下総国は平治の乱後、平家と姻戚関係のあった藤原親政が在地武士を配下に収め、常陸国の佐竹氏とも結んで、千葉氏を継いだ常胤の利権収奪に動きました。常胤は相馬御厨を常陸国の佐竹義宗に、立花郷を親政に奪われ、下総権介職も同族の海上氏に渡ったとされます。

武蔵国では、大蔵合戦で討たれた秩父重隆の後を襲い留守所惣検校職を獲得した畠山重能は、逆に重隆の子孫に検校職を奪い返されます。相模国でも、大庭御厨への濫行を働いた三浦氏や中村氏などの国衙勢力は、平家との結びつきを強めた大庭景親の台頭に、従来の立場が揺らぐ事態となります。

かつて義朝、義平が地域紛争に介入、調停することで築いた関東の秩序は、反対勢力が平家と結びつくことで立場を逆転させました。以仁王の乱と、それに続く東国源氏の武力蜂起は、このような時勢の中で始まったのです。

長い回り道の末、ようやく安房国に渡った頼朝のもとへ戻ることができました。千葉常胤が頼朝に鎌倉入りを進言したのは、かつて義朝が河内源氏の武名によって出現させた関東の(自身に有利な)秩序を再興してほしいという依頼だったのです。

ここで上総広常について、本記事の見解を述べておきましょう。関東最大の兵力を動員できる広常の帰参は、石橋山敗戦から再起した頼朝に絶大な貢献を果たしたとされますが、後に謀反の企てがあるとして誅殺されたため、『吾妻鏡』の正史では広常は頼朝の呼びかけに当初は冷淡で、もし頼朝が主君の器でなければ殺害しようと企んでいたなどと悪し様に描写されます。

しかし、関係する資料を検討した野口実氏は「鎌倉幕府史観のテキストである『吾妻鏡』が広常誅殺を正当化し、また、広常の地位を受け継いだ千葉氏を元来からの両総平氏嫡流に位置付けようとする曲筆をほどこしていることは明らかなのである。」(『源氏と坂東武士』吉川弘文館)と断定します。

本記事もこの説に従いますので、広常は当初から上総党を率いて帰順する意思を表明しており、頼朝に鎌倉入りを進言したのも広常と常胤の共通した要請だったと想定します。

(公開日:2024-03-03)