時政と甲斐源氏の動向

頼朝が上総広常、千葉常胤ら三万余騎の兵を率いて武蔵国に渡った十月二日は、関東の平野部でも紅葉が始まっていたと思われます(『吾妻鏡』に記される日付は旧暦(太陰太陽暦)なので、現在使われる新暦(太陽暦)から一か月ほど後ろにずれる)。ここで武蔵国の有力武将である豊島清元、葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも参集し、「従った軍士は幾千万とも知れないほど」の大軍を率いた頼朝は七日、ついに鎌倉入りを果たします。

まず由比郷(現、神奈川県鎌倉市材木座)にあった鶴岡八幡宮(現在の由比若宮または元八幡)を遙拝した後、父義朝の旧邸があった亀谷へ向かったものの、土地は狭く、亡父を弔う寺院が建てられていたので、上総広常の所有する朝比奈の邸に入ったと思われます(後に新造された大蔵邸へ移る折「上総権介広常の宅を出発されて」とあります)。

わずかひと月余り前には箱根山中を逃げまどっていたのが嘘のように、東国有数の兵力を配下に収めた頼朝は、新邸の建造、鶴岡八幡宮の移設に取り掛かり、正妻政子を呼び寄せて、義朝流鎌倉家の再興を強力に推進します。

ところで、本隊を留守にしたわずかの間に、思いもよらずはしごを外された格好になった時政はどうしているでしょうか。しばらくは失権した指揮官の足取りを、甲斐源氏の動向も含めて追ってみます。

時政が安房国の頼朝たちと別れて甲斐国へ出発したのは九月八日でした。その頃、甲斐の武田信義と子息一条忠頼の軍勢は、本格的な平家軍との対決に先立ち、隣国の平家勢力を叩く軍略を立て、信濃国伊那郡大田切郷の菅冠者を攻め滅ぼし、十四日夜に甲斐国へ帰還し逸見山に宿営しました。逸見山の比定地は山梨県北杜市長坂町大谷田付近から同市須玉町若神子付近に存在した逸見荘の内とされます(海老沼慎治『甲斐源氏』)。翌十五日に、時政はここへ到着しました。

上総氏、千葉氏の帰順を知らぬうちに出発した時政ですから、頼朝が豹変したことも知らず自分こそが仲綱残党軍の指揮官だと信じて疑わなかったでしょうし、安房国へ残してきた軍勢は遠からず甲斐源氏に合流するのが既定の行動であり、婿殿の尽力でいくらか兵力は増加することはあっても、当初の計画どおり自分の指揮に従って動く兵力であることに変わりはないと思っていました。時政は失敗に終わった安田軍との合流計画を見直し、武田、一条の軍勢と仲綱残党軍の共同作戦を協議したのでしょう。

甲斐源氏と時政は逸見山から南下し、駿河国へと通ずる若彦路(富士山西側ルート)および御坂路(富士山東側ルート)のいずれへも向かえる地点となる石和御厨(山梨県笛吹市石和町)まで移動します。ここで駿河国橘遠茂軍の出方を見極めようとしたのでしょう。波志太山合戦以降も甲斐源氏と駿河国衙軍との緊張関係は継続しており、互いに相手の動向を偵察しつつ、決戦の時期を見計らっていました。

(公開日:2024-03-05)