敵は京の平家にあらず

吾妻鏡』の十月二十一日条は、富士川合戦勝利後の軍事行動について、頼朝と家臣たちの間で交わされたやり取りを記します。

小松羽林(平惟盛)を追いかけて攻めるため、(頼朝は)兵士たちに上洛するように命じられた。しかし(千葉)常胤・(三浦)義澄・(上総)広常たちが(頼朝を)諫めて申した。「(中略)(自らの武勇に)驕る者が東国にはまだ多くおります。そうでありますので、まず東国を平定してから、西国に到るべきです」。

本記事の主張では、頼朝は安房国で丸御厨を巡検したときに、平家打倒より河内源氏義朝流鎌倉家の再興を誓ったのですから、「兵士たちに上洛するよう命じ」ることはあり得ません。また、家人たちが頼朝を「諫め」るというのは、後々の頼朝の言動を知る者にとっては、ひどく違和感のある言葉です。

京の貴族社会に生まれ育ち、若くして前途有望な官位官職を得た特別な存在であることを強く意識する頼朝は、地方に土着した武士たちとは身分が違うことを折に触れて言明します。清濁の分からない東国武士は、質素を旨とし(元暦元年十一月二十一日条、藤原俊兼の美服を諫める言葉)、ただ戦場で命を捨てることだけを考えればよいのだ(元暦元年三月十七日条、板垣兼信の申し出に対する返事)、というのが頼朝の在地武士に対する認識ですから、彼らに諫められるはずはありません。

もちろん上総、千葉、三浦の各氏が東国経営を優先してほしいというのは由ある訴えではあります。同族である上総氏と千葉氏はともに、義朝亡き後は平家と結んだ佐竹氏の勢力と緊張関係にあり、現状ではそれぞれの国内にあった平家勢力は潰してありますが、京への大遠征で長く領地を離れれば、いつ北からの侵略を受けるか知れないという切迫した危機感を持っていたでしょう。三浦氏にいたっては、衣笠城合戦に負けて領地を放擲しており、敗走後の領地は敵方から相応の略奪に晒されたでしょう。合戦の相手である畠山ら秩父党とは和解したとはいえ、早く領地に戻り郷民を安心させ、元の生産活動に戻れるよう農地経営を立て直したい気持ちはやまやまです。

それに彼らの願望は、頼朝の基本方針にも合致しているわけですから、兵を関東へ引き上げたのは自身の意思によると考えられます。また、頼朝が構想する鎌倉家は、河内源氏庶流である武田、安田、一条らの甲斐源氏と対等な関係で軍事同盟を結ぶような存在でないと考えていたことは、後の行動で明らかです。

こうした考察から、『吾妻鏡』の語るやり取りは虚構であると考えざるを得ません。それではなぜ『吾妻鏡』はこのような会話の場面を挿入したのでしょうか。

(公開日:2024-03-19)