無二の忠節を示す時政の誕生

平安末期の東海道は伊豆国府のあった三島周辺は通らず、西方の黄瀬川に沿って北上し、足柄峠を越えて相模国に到りました。頼朝軍の駐留した地点は比定できませんが、黄瀬川西部の静岡県沼津市大岡周辺だったと思われます。

北条館で挙兵し山木館襲撃を成功させた後、安田軍と合流するはずだった黄瀬川に、長い回り道の末に到達した時政は、東海道を駆け上って京の平家軍と決戦する時が近づき、はやる心を高鳴らせていたでしょう。黄瀬川の陣に集う武将たちの中で、平家を追って京まで進軍すべきだと考える者を探せば、それは時政以外に考えられません。

指揮官気分の抜けきらない時政が急戦論を主張したのに対し、おそらく頼朝はあっさりこれを否定したはずです。しかし、それをあからさまに記すのは時政の面目を潰すことになるので、『吾妻鏡』は急戦論を主張した頼朝に対し上総広常らがこれを諫めたという寸劇を捏造したのでしょう。

『吾妻鏡』は、富士川合戦後に頼朝が安田義定を遠江国の守護、武田信義を駿河国の守護にそれぞれ任命したとしますが、これも曲筆で、甲斐源氏は自ら獲得した領地に進駐したとするのが研究者の定説です。なお、ここまでの平家に対する軍事行動の貢献度に照らせば、伊豆国は北条家が知行してもよさそうです。しかし、頼朝は実質的な伊豆国の支配権を自身で保持したまま、国の知行者として時政を任命しなかったのは、舅殿を特別扱いせず、義朝流鎌倉家の御家人の一人として他の御家人衆と対等に扱うことを周知する意図があったのでしょう。摂津源氏仲綱の始めた軍事作戦はすでに消滅したのだ、という頼朝の意図が明確に読み取れます。

心中にどんな思いが去来したとしても、時政は婿殿の決定に異議を唱えることはせず、この日以来、義朝流鎌倉家の従順な御家人として生きる道を選びます。時政に権力に対する野心がなかったとは思いません。しかし、少なくとも頼朝の生存中は野心の欠片も見せず、『吾妻鏡』が描写する「常に無二の忠節を頼朝に示していた」という振る舞いを守り通します。よほど頼朝の大将としての器量を高く評価して潔く忠臣の地位に降下することにしたのか、はたまた頼朝がこの後に見せる対抗者への残忍な処罰の萌芽を認め命惜しさに野心を封印したのか、実際のところは知る由もありません。

さて、平家からの軍事的な圧力が緩和されると、頼朝は常陸国へ兵を転進させ佐竹氏を滅ぼすと、北関東に勢力を張る新田義重、藤姓足利氏を帰順させ、着々と東国支配を固めます。これ以降、『吾妻鏡』の語る頼朝挙兵については、引き続き各所に曲筆は見られるものの、正史と秘史に分けられるほど現実との乖離はないと考えられます。頼朝も時政も、無事に我々のよく知る武将の姿へたどり着きました。

治承四年四月九日から十月二十一日まで、つまり以仁王の令旨発布から富士川合戦終結までの七カ月間は、『吾妻鏡』の中で最もスリリングかつ謎や矛盾の満ちた期間です。本記事では、こうであったかもしれない歴史の一面を示す試みを行いました。その成否はともかく、『吾妻鏡』の正史と秘史の相克が解消した吉事を受け、ここで筆を置きましょう。

(公開日:2024-03-20)