甲斐国に執着する敗残兵たち
頼朝を守護すべき六名の武将たちが主君を見捨て、甲斐国へ向かおうとしていた北条時政の供を申し出た場面について、引き続き考察を進めます……
頼朝を守護すべき六名の武将たちが主君を見捨て、甲斐国へ向かおうとしていた北条時政の供を申し出た場面について、引き続き考察を進めます……
頼朝を見失った六名の武将が時政の供をすると申し出たことが、当時の武家社会にとってどれだけあり得ない状況なのか、補足して説明しましょう……
冷たい雨の降る夕刻、大庭景親率いる平家軍の急襲を受けた頼朝軍はさんざんに打ち負かされ、大将の頼朝は翌朝「杉山」に逃げ込んだと吾妻鏡は伝えます。現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近ではないかと推測されるので、石橋山古戦場から山中を十キロメートル近く南へ押しやられたことになります……
頼朝が「陣を構えた」二十三日は、すでに石橋山近辺に頼朝の叛乱を鎮圧すべく、大庭景親の招聘した軍勢が待ち構えていました。景親の弟である俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国ら平家被官の軍勢約三千騎とされます……
首尾よく伊豆国目代を血祭りに上げ挙兵の初戦を飾った頼朝は、翌十八、十九日は兵を北条館に留め、援軍の到着を待ちました。ところが当てにしていた相模国きっての武士団三浦党など「以前から(頼朝に)同意する意思を示した武士がいたのだが、今に遅参している」と、引き続き兵力不足の状況が続きます……