頼朝の決意は空回り
六月十九日、京の官吏である三善康信は、伊豆国北条館に暮らす頼朝の元へ使者を送り、平家の追討使が差し向けられるので早く奥州へ逃げるよう秘密裏に伝えたと吾妻鏡は記します……
六月十九日、京の官吏である三善康信は、伊豆国北条館に暮らす頼朝の元へ使者を送り、平家の追討使が差し向けられるので早く奥州へ逃げるよう秘密裏に伝えたと吾妻鏡は記します……
吾妻鏡は治承四年(一一八〇年)四月九日の条から書き起こされます。源頼政が子息仲綱を伴い後白河法皇の第二皇子である以仁王を密かに訪ね、かねてより準備していた平清盛討伐計画を打ち明け、安徳天皇に代わり王位に就くよう奏上すると、以仁王は東海東山北陸三道諸国の源氏に対し決起を促す令旨を下しました……
吾妻鏡は鎌倉幕府の公式年代記として鎌倉時代末期(一三〇〇年前後)に成立したとされます。当時の政権を握っていたのは執権職を世襲する得宗家の北条一族であり、その編纂に当たっては北条家の主観や正当性を補強するための脚色が随所に施されているという認識が一般的です……
吾妻鏡を初めて手に取ったのは二〇〇七年冬、ちょうど吉川弘文館から『現代語訳 吾妻鏡』が刊行された年でした。同じ年の春、鎌倉の隣町へ移り住んだ当初は身の回りを整理するのに精一杯で、人気の観光スポットである鶴岡八幡宮へ出掛ける余裕すらありませんでした。ひと夏を新天地で過ごし秋を迎える頃、生活にも慣れてきたことで未だ見ぬ土地への興味が頭をもたげ、週末の度に名所旧跡を訪ね歩くようになりました。思いのほか鎌倉は徒歩で有名な神社仏閣へ行けるほど身近な土地だったのです……