頼朝の挙兵
鎌倉を居館とし、河内源氏による関東の秩序を再興するよう求められた頼朝は、正直なところ、相当に戸惑ったろうと想像します。なぜなら安房国安西景益邸にあった頼朝は、いまだ摂津源氏仲綱が組織し伊豆国で挙兵した平家打倒軍の一構成員に過ぎず……
鎌倉を居館とし、河内源氏による関東の秩序を再興するよう求められた頼朝は、正直なところ、相当に戸惑ったろうと想像します。なぜなら安房国安西景益邸にあった頼朝は、いまだ摂津源氏仲綱が組織し伊豆国で挙兵した平家打倒軍の一構成員に過ぎず……
保元の乱の三年後、平治元年に勃発した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、敗走中の尾張国内海荘で家人の裏切りにより命を落とします……
鳥羽院の寵后である美福門院に近い藤原親弘が仁平二年(一一五二年)に相模守に就任すると、義朝は親弘と結んで糟屋荘(神奈川県伊勢原市)、山内荘(神奈川県鎌倉市山ノ内)の立荘に協力し、美福門院への荘園寄進に努めます……
相模国大庭御厨は桓武平氏良文流の鎌倉党大庭氏の所領でしたが、国衙勢力との間で御厨に含まれる鵠沼郷(現、神奈川県藤沢市鵠沼)の帰属をめぐる紛争を抱えていました……
千葉常胤が頼朝に鎌倉へ向かうよう進言した理由は、簡潔に言ってしまえば、かつて鎌倉の館に居住し関東の覇権を握った頼朝の父義朝の役割を継承してほしいという願いでした……