【深読み吾妻鏡】

頼朝の挙兵

鎌倉を居館とし、河内源氏による関東の秩序を再興するよう求められた頼朝は、正直なところ、相当に戸惑ったろうと想像します。なぜなら安房国安西景益邸にあった頼朝は、いまだ摂津源氏仲綱が組織し伊豆国で挙兵した平家打倒軍の一構成員に過ぎず……

【深読み吾妻鏡】

平治の乱後の関東勢力図

保元の乱の三年後、平治元年に勃発した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、敗走中の尾張国内海荘で家人の裏切りにより命を落とします……

【伝承地めぐり】

大蔵館と義賢墓

源義賢は、河内源氏嫡流為義の次男として生まれ、長男義朝が廃嫡され東国へ下向したのち、嫡男の座を得て、父と共に摂関家の忠実・頼長の臣下として摂関領の管理や日常の警備といった奉仕に努めます……

【伝承地めぐり】

多胡郡

源為義の嫡男義賢は仁平三年(一一五三年)に上野国へ下向し、現在の高崎市山名町から吉井町一帯とされる多胡郡に拠点を築きます。これは廃嫡された兄義朝が南関東に勢力を扶植したのに対抗する意図があったとされます……

【深読み吾妻鏡】

大蔵合戦と父子相克

鳥羽院の寵后である美福門院に近い藤原親弘が仁平二年(一一五二年)に相模守に就任すると、義朝は親弘と結んで糟屋荘(神奈川県伊勢原市)、山内荘(神奈川県鎌倉市山ノ内)の立荘に協力し、美福門院への荘園寄進に努めます……

【深読み吾妻鏡】

大庭御厨と相馬御厨

相模国大庭御厨は桓武平氏良文流の鎌倉党大庭氏の所領でしたが、国衙勢力との間で御厨に含まれる鵠沼郷(現、神奈川県藤沢市鵠沼)の帰属をめぐる紛争を抱えていました……

【伝承地めぐり】

相馬御厨

相馬御厨は現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市に広がる荘園で、千葉常重が上総氏初代の常春から譲られた領地を伊勢神宮に寄進して大治五年(一一三〇年)に成立しました……

【伝承地めぐり】

鵠沼郷

大庭御厨は鎌倉一帯を開発した鎌倉権五郎景正が、相模国高座郡大庭郷の領地を伊勢神宮(内宮)に寄進して成立した荘園です。伊勢神宮の神官(禰宜)にして大庭御厨の領家だった荒木田氏は、鵠沼郷内の伊介神社(現、皇大神社)に居住し、ここを御厨の運営に当たる神館としました……

【伝承地めぐり】

鎌倉の館

源頼朝が鎌倉に入部した治承四年十月七日、まず由井郷にあった鶴岡八幡宮(現在の元八幡)を遙拝した後、亀ヶ谷にあった父義朝の館へ向かいました……

【深読み吾妻鏡】

なぜ鎌倉だったのか

千葉常胤が頼朝に鎌倉へ向かうよう進言した理由は、簡潔に言ってしまえば、かつて鎌倉の館に居住し関東の覇権を握った頼朝の父義朝の役割を継承してほしいという願いでした……