【伝承地めぐり】

土肥氏館趾(土肥郷)

土肥実平は相模国南西部を支配した桓武平氏中村党の武将で、源頼朝の挙兵当初から付き従った重臣です。所領の土肥郷は、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町から真鶴町とされます……

【伝承地めぐり】

渋谷氏館跡

渋谷重国は桓武平氏秩父氏の武将で、武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘までを所領とします。源頼朝が挙兵した当初は大庭景親の催促に応じ、平家方として石橋山合戦に参軍しました……

【深読み吾妻鏡】

安全だった土肥郷

石橋山合戦に敗れた源頼朝と北条時政は、箱根神社の宿坊に匿われて一夜を明かした後、八月二十五日に土肥郷(現、神奈川県足柄下郡湯河原町)へ向かいました。その後の二人の動向を追跡しましょう……

【深読み吾妻鏡】

三浦党と平家軍の戦い

伊豆国反乱軍との合流を断念した三浦党は領地へ帰還しますが、途中で武蔵国から進軍してきた畠山軍に遭遇し、鎌倉の由井浦(由比ガ浜)で合戦におよびます。小坪坂合戦とも呼ばれるこの戦いに勝利したのは三浦党でしたが……

【伝承地めぐり】

衣笠城

相模国で有数の勢力を有した三浦党は、衣笠城を居館とする三浦大介義明を棟梁に、近隣の佐原、和田、大多和、多々良など、三浦半島一円に一族の領地が点在します……

【伝承地めぐり】

由井浦

治承四年八月二十四日、三浦党の軍勢は伊豆国で挙兵した頼朝軍に加わるため丸子川(現、酒匂川)まで進軍しましたが、昨夜からの大雨で渡河できずにいたところ、朝になって合戦は源氏方敗北と知らされ三浦の地へ引き返す途中……

【深読み吾妻鏡】

東国平家軍の軍功

仲綱残党軍が伊豆国で挙兵した治承四年八月十七日の時点で、すでに相模、武蔵、駿河の平家軍は、以仁王の令旨を受け取った東国源氏の中で最も危険分子と見られていた甲斐源氏に先制攻撃を仕掛けるため、大庭景親および橘遠茂を指揮官とする組織的な軍事行動を開始していました……

【深読み吾妻鏡】

大庭・橘両軍はいつ出兵したのか

伊豆国で挙兵した反乱軍への迅速な対応により、甲斐源氏軍と仲綱残党軍の連携を阻止する功績を挙げた橘国衙軍は、うっかりすると山木館襲撃の報を受けて出兵したと考えがちですが、騎馬兵の行程を検討すれば、それは現実的ではないと理解できます……

【深読み吾妻鏡】

秘せられた仲綱残党軍の受難

治承四年八月十七日に伊豆国目代山木兼隆館を夜襲した仲綱残党軍は、翌十八日は兵士の休養に充て、かねてより甲斐源氏安田軍と示し合わせていた計画に従い、十九日に黄瀬川宿へ兵を進めました……

【深読み吾妻鏡】

空白の二日間に起きたこと

『吾妻鏡』の記述によれば伊豆国目代の山木兼隆に夜襲をかけた頼朝軍は、翌十八、十九日の丸二日間、これといった軍事行動をとりません。そして二十日、到着の遅れていた三浦党の軍勢と合流するため、伊豆国を出て相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町付近)へ向かったとします……