大庭・橘両軍はいつ出兵したのか
伊豆国で挙兵した反乱軍への迅速な対応により、甲斐源氏軍と仲綱残党軍の連携を阻止する功績を挙げた橘国衙軍は、うっかりすると山木館襲撃の報を受けて出兵したと考えがちですが、騎馬兵の行程を検討すれば、それは現実的ではないと理解できます……
伊豆国で挙兵した反乱軍への迅速な対応により、甲斐源氏軍と仲綱残党軍の連携を阻止する功績を挙げた橘国衙軍は、うっかりすると山木館襲撃の報を受けて出兵したと考えがちですが、騎馬兵の行程を検討すれば、それは現実的ではないと理解できます……
治承四年八月十七日に伊豆国目代山木兼隆館を夜襲した仲綱残党軍は、翌十八日は兵士の休養に充て、かねてより甲斐源氏安田軍と示し合わせていた計画に従い、十九日に黄瀬川宿へ兵を進めました……
『吾妻鏡』の記述によれば伊豆国目代の山木兼隆に夜襲をかけた頼朝軍は、翌十八、十九日の丸二日間、これといった軍事行動をとりません。そして二十日、到着の遅れていた三浦党の軍勢と合流するため、伊豆国を出て相模国土肥郷(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町付近)へ向かったとします……
甲斐源氏の安田軍と連合して波志太山で俣野・橘連合軍と戦った工藤庄司景光、行光が、伊豆国仲綱残党軍の中心戦力だった工藤茂光と同族だったことは、安田軍と仲綱残党軍は工藤氏を介して共同戦線を張っていたことを強く示唆します……
『吾妻鏡』には勝ち軍の描写に具体性を持たせる編集方針が随所に見られます。これには武功を記録してその名誉を讃えることで、一族に後々まで主君への忠誠心を呼び起こす狙いでしょう……
富士山の北麓を宿とした俣野軍は、弦の切れた弓を放置した結果どうなったのか、『吾妻鏡』の続きを見てみましょう……
相模国早川付近(現在の小田原市内)に集結していた大庭軍の陣から箱根湯坂を経て乙女峠、篭坂峠を越えて富士山北麓(現在の河口湖周辺)まで、グーグルマップで距離を計測すると約六十五キロメートルでした。当時の成人男性による軽装の徒歩旅では一日の移動距離は三十五キロメートル前後ですから……
鎌倉時代の移動速度について、前掲した榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく』(吉川弘文館)に沿ってまとめると、飛鳥井雅有という公家にして蹴鞠の達人が四十歳の時に京都から鎌倉に向かった徒歩での旅に要したのは十三日で、「一日に進む距離は三十二キロから四十キロ程度」でした……