以仁王令旨の発給時期について
ここでいったん本論から離れ、以仁王の令旨がいつどのような状況で発給されたかについて、本記事の所見を述べておきましょう……
ここでいったん本論から離れ、以仁王の令旨がいつどのような状況で発給されたかについて、本記事の所見を述べておきましょう……
治承四年六月二十九日、伊豆国の知行国主は清盛の義弟である平時忠が任命されます。本記事の主張に沿って言えば、当初の予定どおりの人事となります。より正確に言えば、頼政の自然死を待って知行国主交替を予定していたところ、思いもかけず頼政の戦死という事態になりましたが、いずれにせよ既定路線だったことに変わりはありません……
伊豆国の有綱ら実働部隊の面々は、事態が最悪の方向へ進んでいることを悟ります。平家打倒計画はなかったことにして、素知らぬ顔でこれまでどおり領地経営を続ける道は閉ざされ、有綱は謀反の輩として断罪、協力した時政ら在地武将たちも縁坐は免れません……
有綱を指揮官として平家打倒計画を着々と進めていた伊豆国では、待望の令旨が東国にもたらされたことで準備は最終段階を迎え、挙兵時期の設定や武将たちの進軍ルート確定といった詰めの作業入ろうとする矢先でした……
平家打倒計画は「兼ねてから準備していた」と吾妻鏡に記されますから、治承四年四月から数か月はさかのぼる時期に動き出したと考えられます。平清盛が後白河法皇を幽閉したクーデターの発生は治承三年十一月で、それを境に貴族、武士の間で平家に対する反感は高まりました……
以仁王の令旨を託された行家は、まず自身の生活拠点としていた紀伊国の熊野三山のひとつ新宮に立ち寄ったと考えられます。平治の乱で義朝と共に戦った行家は、その後は新宮別当行範に嫁した姉の鳥居禅尼のもとへ身を寄せ、新宮十郎義盛と名乗って暮らしていたとされます……
本記事はこれまでの考察に基づき、以仁王の乱を首謀したのは前伊豆守源仲綱だったという前提に立ち、吾妻鏡を読み直していきます……
時の大納言平時忠が「此一門にあらざらむ人は、皆人非人(人なみ以下の者)なるべし」と豪語したとする平家物語の一節はつとに有名ですが、栄華を極めた時期の平家知行国は、「日本秋津島は、わずかに六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既に半国に超えたり」(『平家物語』「吾身栄花」の段)という異常なまでの寡占状況でした……
以仁王の令旨を承ったのが仲綱だった謎を解くヒントは、上横手氏も前掲書で言及しているように、『平家物語』「競」の段に描かれていました。その逸話とは、清盛の次男宗盛が、仲綱の所有する名馬を無理矢理取り上げたという内容です……
平家打倒に燃える以仁王から謀反計画への参加を強く促されたとしても、そこは老獪な頼政ですから、「もう年寄りなのでお役に立てそうにありません」だの、「最近は体の調子が思わしくなく」だのと、のらりくらりとした態度で言葉を左右させ、なんとか以仁王の方から断念するのを待ったでしょう……