大庭御厨と相馬御厨

相模国大庭御厨は桓武平氏良文流の鎌倉党大庭氏の所領でしたが、国衙勢力との間で御厨に含まれる鵠沼(くげぬま)(現、神奈川県藤沢市鵠沼)の帰属をめぐる紛争を抱えていました(以下、野口実『源氏と坂東武士』より)。

これにつけ込んだ義朝は元養元年(一一四四年)、相模国目代と結託し在庁官人や配下の三浦氏、中村氏を派遣して、二度にわたって御厨領内に乱入し、収穫物を奪う、領内の住人や神人らに危害を加える、果ては御厨の下司だった大庭景宗(景親の父)の私財まで略奪するという濫行らんぎょうを働きました。領家である伊勢神宮の訴えにより所領は守られましたが、義朝に対する公的な刑罰は下されません。これは相模守藤原頼憲の黙認があったからです。いくら不法な暴力行為を受けても相手は処罰されないのですから、大庭氏は義朝の武威に服従するしかありません。

下総国へ目をやると、上総氏と千葉氏は桓武平氏良文流の忠常を祖とする同族で、相馬御厨(現、千葉県我孫子市から茨城県取手市あたり)は上総常晴が千葉常重に譲った所領から成立した伊勢神宮の荘園ですが、ここでも帰属をめぐる紛争が生じていました。天養二年(一一四五年)、義朝は上総常澄(広常の父)と共謀し、摂関家に近かった下総守藤原親道も巻き込んで、相馬御厨の下司職を千葉氏から無理矢理に奪い、得分の一部は千葉氏に残しつつ、所領は上総氏に分け与えます。摂関家とのつながりを武器に同族間の所領争いに介入した義朝は、上総氏にはかつての所領を回復させ、千葉氏には争いに負けてすべて失うよりもましだろうと難癖を付け、結果的に両者に恩を売って家人に加えることに成功します。

鳥羽院判官代藤原憲方の子息とされる頼憲を通し、義朝は鳥羽院の意を受けて大庭御厨への乱入に及んだと想起されるので、その見返りとして鳥羽院へ接近する契機をつかんだのでしょう。院近臣を輩出する熱田大宮司家の娘を正妻に迎えた義朝は、久安三年(一一四七年)に頼朝を儲けます。この頃には活動拠点を京に移し、東国の経営は鎌倉の館に居住する長子義平に任せました。

幼年期に東国へ下向させられた屈辱を跳ね返すべく、現地の武将らが引き起こす抗争に次々と介入し、結果的に彼らを家人として動員できる軍事力を獲得した義朝は、ついに京武者の地位にたどり着きました。そして父為義や嫡子義賢、頼賢を見返してやりたいと強く願ったに違いありません。義朝は野心を実現させるため、鳥羽院へ接近します。この選択は大きな果実を生むと同時に、一族にとって悲惨な結果を招くことにもなります。

(公開日:2024-02-02)