波志太山合戦の顛末

富士山の北麓を宿とした俣野軍は、弦の切れた弓を放置した結果どうなったのか、『吾妻鏡』の続きを見てみましょう。

そこでどうしようかと途方に暮れていたところに、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子息小次郎行光、市河別当行房が、石橋で合戦が行われた事を聞き、甲斐国を出発していたので、波志太はしだ山において景久らに遭遇した。

景久らは腰に付けた弦巻に思いを致すこともせず、途方に暮れていたところ、甲斐源氏の安田軍と遭遇しました。波志太山は、河口湖と西湖の間にある足和田山と考えられます(海老沼真治『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』戎光祥出版)。俣野軍はおそらく後続部隊の合流を待って波志太山麓の宿営地にいたところを安田軍に発見され、攻撃を仕掛けられたと思われます。

おのおのがくつわめぐらし矢を放ち、景久を攻め立てた。戦うこと数刻、景久らは弓の弦が絶たれていたので太刀を手にとって戦ったが矢を防ぐことができず、多くがその矢に当たった。また安田以下の家人けにんらも剣刃をまぬがれることはなかった。こうして景久は敗れ去ったという。

弓矢を構える敵に対して太刀で戦うのでは、どうぞ私を射殺してくださいと、自ら命を投げ出す行為に変わりありませんから、景久らが敗退するのは当然で、むしろ数刻(一刻は約二時間)も持ちこたえたのは不思議なくらいです。

波志太山の合戦に投入された俣野・橘連合軍の兵力は、大庭軍三千騎のうちの先遣隊と駿河国からの兵を合わせ、仮に千騎と見積もっておきましょう。当時の軍兵は、ひとりの騎馬武者に対して数名の従者が同行しました。主を補佐する従者には、軽便な武具を帯びた徒歩の戦闘員から、換え馬を引くなど主の身辺を世話する非戦闘員もいます。ですから千騎といっても、実際に馬に乗って矢を射る武者を五分の一と見積もれば二百人ほど、そのうち「百余の弓の弦」が破損したまま合戦に臨めば、勝ち目はなくて当然です。本当に、こんな悲惨な状態で合戦に及んだのでしょうか。

勝利したはずの安田軍についても、不審に思える記述があります。『吾妻鏡』の編纂方針として、味方が軍に勝った場合、必ずと言っていいほど軍功を挙げた武者の活躍ぶりを具体的に描写するのです。例えば、富士川の合戦では飯田家義が逃げる平家軍を追って河を渡り伊勢国住人伊藤武者次郎を討ち取ったこと、佐竹秀義の金砂城攻めでは熊谷直実と平山季重が「所々で真っ先に進み、さらに自らの命を省みず、多くの敵の首を取った」こと、志田義広と戦った野木宮合戦では小山朝政、長沼宗政の活躍など、武士の名前を挙げ、具体的にどのような勲功を挙げたのかを記すのです。

それでは波志太山合戦の勲功はどのように記録されたのか確認しましょう。

(公開日:2023-08-12)