
源頼朝が挙兵した治承四年八月十七日、伊豆国府に近い三嶋大社では神事が行われる予定でした。そこで頼朝は、神事が行われる前に側近の安達盛長を奉幣の御使として社参させ、必勝を祈願しました。この日に夜襲をかける山木判官兼隆の郎従たちは、三島社の神事を見物しに出掛け、そのまま黄瀬川宿に留まって遊び歩いていたため、館の警備は手薄でした。その隙を突いた夜襲は成功し、兼隆とその郎従たちは討ち取られました。
また、平家追討軍を撃退した富士川合戦の翌日となる同年十月二十一日、頼朝は夕刻に湯浴みをして身を清めた後、戦勝に感謝して三嶋社へ詣で、伊豆国内の御園、河原谷、長崎の三箇所を神領として寄進したと吾妻鏡は伝えます。
なお、下の写真にある石碑では、神領寄進の下文は挙兵二日後の八月十九日に寄せられたとなっています。気前のいい頼朝は挙兵直後と富士川合戦直後の二回、神領を寄進したのでしょう。

