伝承地めぐり

本サイトの連載記事「深読み吾妻鏡」に出てくる伝承地を写真と文で紹介します。いずれも実際に現地を取材した上、Google マップを掲載していますので、現地へ足を運ぶ際に活用ください。

富士川合戦では戦わずして京へ逃げ帰った平家軍でしたが、東国の叛乱に手をこまねいていたわけではありません。福原遷都を断念して京へ戻った平清盛は、すぐさま近江源氏の山本義経、柏木義兼らを敗走させ、休む間もなく園城寺へ追討軍を派遣しました……

相模国の有力武将である波多野氏は、武門の勇として知られる秀郷流の末裔で、前九年の役に源頼義に従い討ち死にした佐伯経範の代から源氏の家人でした……

佐竹討伐を成し遂げ、その所領である常陸国奥七郡や太田、糠田、酒出などを収公し恩賞として家人に分け与えた頼朝は、治承四年十一月八日に鎌倉へ帰還するところでした。そこへ佐竹の残党十人ばかりが現れたとの知らせが……

常陸国に拠点を置く佐竹氏は、頼朝挙兵当初こそ帰順を拒んで討伐の対象とされましたが、奥州合戦に参戦したのを機に、鎌倉幕府の御家人に加えられました。佐竹氏は頼朝と同じ河内源氏の新羅三郎義光の末裔で……

常陸国に所領を獲得し、平家の被官として勢力を維持していた佐竹氏は、頼朝による再三の帰参要求を拒んだため、治承四年十一月に頼朝軍に金砂城を攻め落とされました……

佐竹氏討伐を進める頼朝は、大矢橋で佐竹義政を滅ぼすとすぐに、佐竹秀義の籠城する金砂城へ下河辺行平、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱、熊谷直実、平山季重らの精鋭部隊を放ちました……

富士川合戦で平家軍を追い返し、相模国府へ戻って論功行賞を行った頼朝は、いまだ自分に帰順しない常陸国の佐竹氏を討伐するため、大軍を擁して常陸国府(現在の茨城県石岡市)へ進軍しました……

富士川合戦に勝利した源頼朝は治承四年十月二十三日、相模国府に兵を引き、それまでの勲功に対する恩賞を宛て行いました。この時宿泊したのは……

源氏軍と平家軍が初めて直接対決した富士川合戦は、矢合わせやの前夜に水鳥の群れが何かに驚いて一斉に飛び立った羽音を源氏軍の来襲と勘違いした平家軍が大慌てで京まで逃げ帰り、源氏軍の大勝利に帰しました………

甲斐源氏が駿河国目代の橘遠茂率いる平家軍と対決した鉢田合戦の比定地は、富士五湖の本栖湖南側にそびえる龍ヶ岳の端足峠だったとされます………