
富士川合戦に勝利した源頼朝は治承四年十月二十三日、相模国府に兵を引き、それまでの勲功に対する恩賞を宛て行いました。この時宿泊したのは、往路にも利用した相模国府六所宮(現在の六所神社)です。この地に二日滞在した後、頼朝は配下の軍勢を引き連れて松田御亭へ移動します。
石橋山の合戦で頼朝軍を敗走させた平家被官の大庭景親は、富士川合戦に平家方として参戦しようと出陣しましたが、頼朝軍が先に足柄峠を越えたため、先へ進めなくなって河村山に逃亡したところ、頼朝配下の追討軍に捕らわれ、六所宮の陣中へ連行され上総広常に身柄を預けられます。そして同月二十六日、固瀬河で梟首されました。
平安時代の相模国府はこの辺りにあったとされ、相模国五社の一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、一国一社平塚八幡宮の御分霊を、ここ柳田大明神に合祀して六所神社または国府六所宮と呼ばれるようになったそうです。
(公開日:2025-11-20)