北条宗時の墓

北条宗時と狩野茂光の墓

北条時政の嫡男三郎宗時は、石橋山合戦に敗れた後、「土肥山から桑原へと降り、平井郷を通っていたところ、早河の辺りで(伊東)祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重によって射取られた」と『吾妻鏡』に記されます。平井郷は現在の静岡県田方郡函南かんなみ町平井に比定され、JR東海道線の函南駅近くの台地上に、北条宗時と狩野(工藤介)茂光を祀った墓があります。二つある五輪の塔は、大きい方が宗時、小さい方が茂光の墓石だそうです。

この墓地の近くに流れる冷川ひえかわは、吾妻鏡に出てくる早河が時代を経るうちに「ひえかわ」と変化したものと考えられます。後年になり、父の時政がこの地に墓を設け宗時を祀ったと由緒に書かれています。地元の人は宗時を「時まっつあん」と呼び親しんだといい、毎年秋の彼岸中日に供養の祭礼を行うそうです。

北条宗時が討ち取られたとされる冷川(早河)

宗時と共に埋葬される狩野茂光は、吾妻鏡では工藤介茂光と表記され、子息の五郎親光とともに石橋山合戦に参軍した伊豆国きっての豪族です。茂光は敗走中に歩けなくなり自害したと吾妻鏡にありますが、源平盛衰記にはもう少し詳しい話が書かれています。茂光は太っていたため険しい山を登れず、敵に討たれ首を晒す恥辱を受けるよりはと、親光に自分の首を斬るよう命じますが、親光はどうしても父親を斬れずにいると、ついに茂光は自ら腹を掻き切ったと伝えます。

北条宗時と狩野茂光の名が刻まれた石碑

北条宗時の墓へは、JR函南駅から来光川と冷川の合流点へ向かって坂を下り、橋の手前で右手の小高い丘に登ります。

(公開日:2023-03-23)