大蔵館と義賢墓

源義賢の住んだ大蔵館跡とされる大蔵神社

源義賢は、河内源氏嫡流為義の次男として生まれ、長男義朝が廃嫡され東国へ下向したのち、嫡男の座を得て、父と共に摂関家の忠実・頼長の臣下として摂関領の管理や日常の警備といった奉仕に努めます。京武者として活動するも失態を繰り返し不遇となった義賢は、嫡男の座を弟の頼賢に譲って上野国多胡郡に下向し、武蔵国最大の武士団秩父氏を統括する重隆の庇護を受け大蔵館に移り住みます。

義賢の兄義朝は、このときすでに南関東(相模、上総、下総など)の武士団を従える実力者となり、自身は京へ移り住んで鳥羽院に接近し、関東の経営は長男の義平に任せていました。鎌倉の亀ヶ谷にあった源氏相伝の館に住む義平は、久寿二年(一一五五年)八月、突如として兵を率い叔父の暮らす大蔵館へ攻め入り、義賢とその庇護者である秩父重隆を殺害します。

血族同士が殺し合った大蔵合戦の背景には、摂関派の為義・義賢と鳥羽院派の義朝・義平の対立、さらに関東での勢力争いが働いていたとされます。翌年に起きた保元の乱では、勝者の義朝は父為義と弟たちを処刑しました(以上は元木泰雄『河内源氏』より)。

武士の血生臭い抗争が日本史の表舞台に次々と現れる契機となったのが大蔵合戦でしたが、その舞台となった大蔵館は、現在では大蔵神社となっています。周囲の土地からわずかに盛り土された一帯は、かつての武家屋敷を思い起こさせる趣があります。大蔵神社の近くには、義賢を祀った墓地もあります。

源義賢廟堂

上の廟堂に隣接して、「源氏三代供養塔」なる石碑群があり、義賢に関係する源氏諸氏の解説などがあります。車で訪れるなら、ここに駐車して徒歩で廟堂や大蔵神社を巡るとよいでしょう。

(公開日:2024-03-03)