富士川

富士川東岸

源氏軍と平家軍が初めて直接対決した富士川合戦は、矢合わせやの前夜に水鳥の群れが何かに驚いて一斉に飛び立った羽音を源氏軍の来襲と勘違いした平家軍が大慌てで京まで逃げ帰り、源氏軍の大勝利に帰しました。

これは平家物語に記されたエピソードですが、吾妻鏡では富士川を挟んで対峙していた甲斐源氏軍の武田信義が密かに平家軍の背後を襲おうと夜半に渡河を試みたところ、これに驚いて飛び立った水鳥の羽音を聞いた平家軍は、源氏軍に前後を包囲されては敵わないと早計に判断し、夜明け前に撤退したとします。

京の九条兼実が『玉葉』に残した記述によれば、逃げ帰った平家軍は治承四年十一月五日晩に京へ入りました。先着した平知度はわずか二十騎余り、続く平維盛は十騎に過ぎなかったと官軍の惨憺たる情況を伝えます。合戦に先立ち、甲斐源氏から使者が平家の陣を訪れ、富士川の東岸に広がる浮嶋原で合戦をしようと伝えましたが、その時点で平家軍は四千余騎、対する武田軍は四万余騎で、士気の低い官軍は数百騎が源氏方に寝返り、残ったのは一、二千騎に過ぎず、軍大将の伊藤忠清が維盛を説得して撤退を決めたそうです。

いずれにせよ軍勢の規模に大差があり、戦う前に勝敗は決まっていました。直前の鉢田合戦で甲斐源氏軍が橘遠茂が率いる駿河・遠江軍を壊滅させたことが、富士川合戦の趨勢に決定的な影響を及ぼしたといえるでしょう。

現在の富士川河口付近は緑地公園化されて、いくつもの運動場が整備されています。近くを通る新富士川橋は幅1.5キロメートルもありますが、平安末期は堤防などありませんから、もっと幅広い一帯に幾筋にも流れが分かれ、水鳥の群れる大小の沼地が広がっていたのでしょう。

(公開日:2024-03-19)