相馬御厨

相馬御厨に含まれた手賀沼から北方を望む

相馬御厨は現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市に広がる荘園で、千葉常重が上総氏初代の常春から譲られた領地を伊勢神宮に寄進して大治五年(一一三〇年)に成立しました。ところが常重は官物未納の廉で、国守に相馬御厨を収公されてしまいます。

千葉氏と上総氏はいずれも良文流平氏の同族ですが、上総常春は嫡男の常澄とは折り合いが悪く、領地を千葉氏の常重に譲りました。これを不満に思う常澄は、領地奪回を目指していました。官物未納の失政に加え、上総氏と千葉氏の所領争いに目を付けた源義朝は、武威に物をいわせて国守に圧力をかけ、同御厨を自身が寄進したことにして支配権を押領し、これを上総氏と千葉氏に分割統治させることで両氏に恩を売り、家人化したとされます。

その後、活動拠点を京へ移した義朝は後白河院に接近し、保元の乱では多くの東国武士を招集し勝利しました。この乱には、上総広常(常澄の子)、千葉常胤(常重の子)が参戦しています。

手賀沼の東方には、下総国相馬郡にあった郡衙の遺構(日秀西遺跡)が発掘され、この付近が相馬郡の中心地だったことが判明しました。千葉県立湖北特別支援学校の敷地脇に、遺跡の発掘調査に関する掲示板があります。

相馬郡衙正倉跡

現地に相馬御厨に関する遺構などは見当たらず、近くの手賀沼公園にて当時を偲ぶことにしました。トイレ、駐車場完備。なお、相馬郡衙正倉跡に駐車スペースはありません。

(公開日:2024-02-02)