大矢橋と佐竹義政の首塚

富士川合戦で平家軍を追い返し、相模国府へ戻って論功行賞を行った頼朝は、いまだ自分に帰順しない常陸国の佐竹氏を討伐するため、大軍を擁して常陸国府(現在の茨城県石岡市)へ進軍しました。治承四年十一月四日のことです。

佐竹氏は河内源氏の義光を祖とし、常陸北部(太田および奥七郡)に勢力を扶植した一族です。当主は同国の有力在庁官人でもあった隆義で、頼朝挙兵当時は平家の被官として在京しており、領地には留守居役として嫡男秀義、兄義政が在りました。頼朝は両者に上総広常を遣わして意向をただしたところ、秀義は同国の金砂城に引きこもり徹底抗戦の構えを見せます。一方、義政は頼朝との会談に応じると返答しました。

そこで頼朝は義政を大矢橋に誘い出し、互いに家人を遠ざけて頼朝と義政、そして仲介役である広常の三人だけで橋の中央に集います。いわゆるトップ会談ですね。同じ河内源氏の武将なのだから、直接会って話せばわかり合えるだろう、などと広常は甘言を弄したのかもしれません。ところが、広常はたちまち刀を抜いて義政を殺してしまいます。あまりにも素早い処置に、義政の家人たちは主君を守ることも、反撃することもできず、逃げ去ったと言います。

現在は、園部川にかかる新大矢橋の近くに佐竹義政の首塚が残っています。案内板によれば行里川には胴塚もあるそうです。場所は常磐自動車道の石岡小美玉スマートICすぐ横です。

(公開日:2026-05-09)