
常陸国に拠点を置く佐竹氏は、頼朝挙兵当初こそ帰順を拒んで討伐の対象とされましたが、奥州合戦に参戦したのを機に、鎌倉幕府の御家人に加えられました。佐竹氏は頼朝と同じ河内源氏の新羅三郎義光の末裔で、鎌倉にあった義光の館を継承して屋敷としたそうです。
当時の御家人は本領地に住居して農地経営に励み、鎌倉には出先機関を置き「いざ鎌倉」なったときに出仕する二拠点生活を送るのが普通だったといわれます。佐竹屋敷も普段は名代の侍が住居し、佐竹の殿様が鎌倉に参上する際の宿所としたのでしょう。
佐竹屋敷の碑があるのは、北条時政の名越亭があったとされる名越谷津の入口から少し進んだところで、源義光の創建とされる大町八雲神社とは祇園山をはさんだ反対側に当たります。この屋敷に住んだ最初の当主は、頼朝と金砂城で戦った佐竹秀義だと碑には記されています。その後、佐竹義盛が応永六年(一三九九年)に出家し多福寺を建立し、現在は再建された大宝寺となりました。境内には義光が信仰した多福明神社があります。
(公開日:2026-05-21)