
富士川合戦では戦わずして京へ逃げ帰った平家軍でしたが、東国の叛乱に手をこまねいていたわけではありません。福原遷都を断念して京へ戻った平清盛は、すぐさま近江源氏の山本義経、柏木義兼らを敗走させ、休む間もなく園城寺へ追討軍を派遣しました。以仁王の乱に加担した園城寺に残る反平家の悪僧を徹底的に排除しようという清盛の強い意志の現れでした。この攻撃により、金堂をはじめとする堂舎や塔廟はことごとく焼き払われました(『吾妻鏡』治承四年十二月十三日条)。
琵琶湖のほとりに建つ園城寺(三井寺)は河内源氏とは古い縁を持つ天台宗の寺院で、源頼義が前九年の役に出征する前に園城寺の新羅明神に戦勝祈願したとされます。甲斐の武田氏や常陸の佐竹氏の祖となった源義光の通称が「新羅三郎」なのは、この新羅明神で元服したからだそうです。桃山時代を代表する名建築とされる金堂は、豊臣秀吉の正室北政所によって慶長四年(一五九九年)に再建されました。

源平争乱での重要な登場人物である後白河法皇は、度重なる延暦寺大衆による強訴に手を焼き、それに当てつけるごとく、延暦寺とは仇敵関係にある園城寺に接近します。このあたりの政治的駆け引き「敵の敵は味方」を地で行く手腕は、謀略の策士たる後白河ならではですね。頼朝挙兵の二年前、後白河は園城寺で秘密の
平家への反乱が事前に発覚した際に以仁王が園城寺へ逃れたのは、父である後白河との浅からぬ縁を頼った側面はあったでしょう。園城寺の大衆は以仁王をかくまい、延暦寺と興福寺にも牒状を送り協力を求めます。興福寺は合意したものの、延暦寺は平家の懐柔に屈し、かえって園城寺へ攻撃の構えを見せます。ここに至り以仁王は南都へ脱出を試みますが、途上の光明山の鳥居前で討ち死にします。こうした経緯により反平家の拠点と見做された園城寺は、清盛の標的とされて壊滅的な打撃を受けたのです。
(公開日:2026-06-04)