
源頼朝の居所および政務の場である御邸は、鶴岡八幡宮に隣接した大蔵郷といわれる地に建造されました。現在の町名でいうと鎌倉市雪ノ下三丁目の東半分を占めます。清泉小学校の南西角にある大蔵幕府跡碑(写真上)が大蔵御邸の中心部とされ、東西の境界にはそれぞれ西御門旧跡碑、東御門旧跡碑があり、北は源頼朝の墓とされる法華堂跡、南は金沢街道まで。一帯は宅地化されて実感はわきませんが、東西は200メートル、南北は220メートルあり、実際に歩いてみるとかなり広い敷地だと感じます。
佐竹討伐から帰還したのは治承四年十一月十七日、それからひと月後の十二月十二日に新造された大蔵御邸へ転居する
この儀式に参列した家人たちは、新邸に建てられた侍所に向かい合って二列に座り、侍所別当(武士を統制する役所の長官)に補任された和田義盛によって記名されました。その人数は三百十一人。侍所は十八間の広さがあったそうです。修学旅行などで京都の三十三間堂を見学された方は多いでしょう。あの壮大な木造建築の半分強の広さはなかなかの規模です。そこへ三百人からの東国武将をはべらせたのですから、かなり壮観な儀式だったでしょう。
この日の『吾妻鏡』には、次の有名な一文が記載されます。
これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。
辺鄙な土地に過ぎなかった鎌倉は武家の都に昇格し、晴れて鎌倉殿が誕生した記念すべき日だと言うわけです。
(公開日:2026-07-16)