忠臣たちの怪しい振る舞い
冷たい雨の降る夕刻、大庭景親率いる平家軍の急襲を受けた頼朝軍はさんざんに打ち負かされ、大将の頼朝は翌朝「杉山」に逃げ込んだと吾妻鏡は伝えます。現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近ではないかと推測されるので、石橋山古戦場から山中を十キロメートル近く南へ押しやられたことになります……
冷たい雨の降る夕刻、大庭景親率いる平家軍の急襲を受けた頼朝軍はさんざんに打ち負かされ、大将の頼朝は翌朝「杉山」に逃げ込んだと吾妻鏡は伝えます。現在の神奈川県足柄下郡湯河原町付近ではないかと推測されるので、石橋山古戦場から山中を十キロメートル近く南へ押しやられたことになります……
頼朝が「陣を構えた」二十三日は、すでに石橋山近辺に頼朝の叛乱を鎮圧すべく、大庭景親の招聘した軍勢が待ち構えていました。景親の弟である俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国ら平家被官の軍勢約三千騎とされます……
首尾よく伊豆国目代を血祭りに上げ挙兵の初戦を飾った頼朝は、翌十八、十九日は兵を北条館に留め、援軍の到着を待ちました。ところが当てにしていた相模国きっての武士団三浦党など「以前から(頼朝に)同意する意思を示した武士がいたのだが、今に遅参している」と、引き続き兵力不足の状況が続きます……
八月十七日、頼朝はついに平家打倒の兵を挙げます。手勢の武将として名前を確認できるのは北条時政、前回で触れた定綱ら佐々木四兄弟、岡崎四郎義実と子息左奈田与一義忠、土肥次郎実平、加藤次景廉、堀藤次親家など……
吾妻鏡の八月二日条は、以仁王の乱を鎮圧するために在京していた大庭三郎景親など東国武士の多くが帰国したと記します。景親は罪を犯して斬首されるところを平家に助命された恩義により平家の被官となって以来、東国における平家の後見人として兵を招集、指揮する権限を与えられた存在でした……