山木館襲撃における有能な指揮官だった時政
頼朝とわずかな警固兵を北条館に残し、軍勢は山木郷を目指し夜の闇を突いて出陣します。途中、肥田原という地に着いたところで、時政は馬を止め、佐々木定綱にこう言います……
頼朝とわずかな警固兵を北条館に残し、軍勢は山木郷を目指し夜の闇を突いて出陣します。途中、肥田原という地に着いたところで、時政は馬を止め、佐々木定綱にこう言います……
山木兼隆の暮らす館は「要害の地であり、行くにも帰るにも、人や馬の往来が大変なところ」だと吾妻鏡は描写します。そこで頼朝は、京下りの遊客である藤原邦道をスパイに仕立て、客人を装い兼隆の館を訪問させ、周囲の詳細な地形を絵図に書かせます。これに基づいた攻略計画を立て、決行の日を八月十七日寅卯の刻(午前五時頃)と定めました……
源頼朝が挙兵に向け具体的な行動を起こしたのは、治承四年六月二十四日だと吾妻鏡は伝えます。「平氏を追討する計略」は着々と進み、八月四日には最初の攻撃目標を伊豆国目代にして平家の威勢を借る山木判官兼隆に定めます……
八月二十四日夜、頼朝らは永実の案内で「密かに箱根山に到着」し、永実宅に宿します。箱根山とは現在の箱根神社で、永実は自分の暮らす宿坊へ頼朝一行を招いたと思われます……
石橋山合戦二日目の八月二十四日に話を戻しましょう。六名の忠臣が実平に追い返された場面の後に、次のような記述があります……