仲綱残党軍と甲斐源氏のつながり
甲斐源氏の安田軍と連合して波志太山で俣野・橘連合軍と戦った工藤庄司景光、行光が、伊豆国仲綱残党軍の中心戦力だった工藤茂光と同族だったことは、安田軍と仲綱残党軍は工藤氏を介して共同戦線を張っていたことを強く示唆します……
甲斐源氏の安田軍と連合して波志太山で俣野・橘連合軍と戦った工藤庄司景光、行光が、伊豆国仲綱残党軍の中心戦力だった工藤茂光と同族だったことは、安田軍と仲綱残党軍は工藤氏を介して共同戦線を張っていたことを強く示唆します……
『吾妻鏡』には勝ち軍の描写に具体性を持たせる編集方針が随所に見られます。これには武功を記録してその名誉を讃えることで、一族に後々まで主君への忠誠心を呼び起こす狙いでしょう……
富士山の北麓を宿とした俣野軍は、弦の切れた弓を放置した結果どうなったのか、『吾妻鏡』の続きを見てみましょう……
相模国早川付近(現在の小田原市内)に集結していた大庭軍の陣から箱根湯坂を経て乙女峠、篭坂峠を越えて富士山北麓(現在の河口湖周辺)まで、グーグルマップで距離を計測すると約六十五キロメートルでした。当時の成人男性による軽装の徒歩旅では一日の移動距離は三十五キロメートル前後ですから……
鎌倉時代の移動速度について、前掲した榎原雅治氏の『中世の東海道をゆく』(吉川弘文館)に沿ってまとめると、飛鳥井雅有という公家にして蹴鞠の達人が四十歳の時に京都から鎌倉に向かった徒歩での旅に要したのは十三日で、「一日に進む距離は三十二キロから四十キロ程度」でした……
『吾妻鏡』の八月二十五日条は「大庭三郎景親は武衛(源頼朝)の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた」という一文で始まります。この前日、頼朝らと箱根神社の永実宿坊で夜を明かした時政は、夜が明けると「山伏の通る路を経て甲斐の国に向かわれた」のですが、途中で引き返してきたことは前述しました……
『山塊記』は「平安時代末期の公卿中山忠親の日記」(『広辞苑』)です。治承四年九月七日条に、上野国の有力武将新田義重が忠親の兄花山院忠雅(平清盛とも)へ宛てた書状が記されます……
以仁王の乱を経て東国で勃発した反平家の軍事行動は、京に暮らす人々にはどのように映っていたのか、貴族の残した日記から推察してみましょう。北条時政を指揮官とする仲綱残党軍が伊豆国で挙兵したことは、九条兼実の日記『玉葉』の治承四年九月三日条に記されます……