
佐竹討伐を成し遂げ、その所領である常陸国奥七郡や太田、糠田、酒出などを収公し恩賞として家人に分け与えた頼朝は、治承四年十一月八日に鎌倉へ帰還するところでした。そこへ佐竹の残党十人ばかりが現れたとの知らせが入ります。すぐに生け捕らせて本陣の庭中に召し出し、頼朝自ら尋問を行いました。
紺の直垂を着た男が顔を伏せしきりに泣いているのでその訳を尋ねると、主君を討たれて生きる望みを失ったのだと答えます。それなら佐竹が討たれた時に自刃すればよかったろうと言うと、橋の上で主君が討たれた時はなすすべなく、後日のことを思って逃亡したが、一言申さずにはいられず不本意ながら参上したのだと。そして男は自らの命を省みず、敵将である頼朝に
平家を追討するという計画をさしおいて、一族である佐竹を滅ぼされるとは、全くあってはならない事です。国の敵(平家)に対しては、天下の勇士が一揆して力を合わせるべきです。しかし過ちのない一門を誅されては、御身の敵は、誰に命じて退治されるおつもりですか(中略)今のような状態だと、人々はただ恐れをなすだけで、心から服従する志を持つ事はなくなり、きっとそしりを後代にお残しになるだけでしょう。
これを聞いた上総広常は、こんな不遜な事を言う輩はすぐに誅殺すべきと進言しますが、頼朝はそれを制しただけでなく、自らの行いに悔いるべき点があったことを認め、彼を御家人に加えました。男の名は岩瀬与一太郎。現在の常陸大宮市上岩瀬を本領地とした武者で、大矢橋で討たれた佐竹義政の近習でした。よく知られたこのエピソードに登場する岩瀬太郎について、その後『吾妻鏡』に言及はありませんが、御家人に加えられて鎌倉へ移住した記録があります。
鎌倉の北方、JR大船駅の東側に岩瀬という地名が現在も残っています。鎌倉女子大学岩瀬キャンパスのすぐ裏手にある岩瀬五社稲荷神社の略記によると、頼朝の随身一騎奉行としてこの地に居住した岩瀬与一太郎義正が、建久年間(一一九〇~一一九八年)にこの社を創建したと相模風土記にあるそうです。
頼朝の温情で御家人に取り立てられ、鎌倉近郊に所領まで与えられた岩瀬義正は、その厚誼を意気に感じ、生涯主君に忠誠を尽くしたことでしょう。随身一騎奉行とは頼朝を護衛する行政職ですから、本領地を離れて鎌倉へ定住し職務に励んだはず。そして随身を家職となし代々の鎌倉将軍家に仕える一族となったことで、現在まで地名が残ったのに違いありません。
(公開日:2026-05-24)