土肥氏館趾(土肥郷)

JR東海道本線湯河原駅に建つ土肥氏館趾の石碑

土肥実平は相模国南西部を支配した桓武平氏中村党の武将で、源頼朝の挙兵当初から付き従った重臣です。所領の土肥郷は、現在の神奈川県足柄下郡湯河原町から真鶴町とされます。石橋山合戦で敗れた頼朝にぴったり寄り添い、箱根山中の椙山付近に身を隠して平家軍の追っ手をかわし、無事に土肥郷へ脱出させる勲功を挙げました。

その後も常陸国佐竹氏討伐、木曽義仲を討った上洛軍にも従軍し、続く平家との直接対決となった一ノ谷合戦では源義経の大手軍に加わります。平家が屋島に逃れた後、備前・備中・備後の守護職に補任されるほど、頼朝から絶対的な信頼を勝ち得ました。

平家追討軍として西海へ向かった甲斐源氏の板垣兼信が、自分は源氏一門で土肥実平は配下の者であるのに私の命令に従わないと頼朝へ不平を述べた時、頼朝は実平を評して、その貞節心は他の者に比すべくもなく、その器量により西国での采配を委任したのだ、お前は戦場で命を捨てることだけ考えろ、と兼信を叱責した話は有名です。

晩年の実平は、恩賞で得た安芸国沼田荘(現、広島県三原市)に嫡男小早川遠平がと共に移り住み、彼の地で没しました。遺骨は分骨され鎌倉へ運ばれて頼朝に目通りされた後、土肥郷の成願寺に埋葬されました。成願寺はJR湯河原駅北側の丘陵地にあり、土肥一族の墓所が現存します。

成願寺に祀られる土肥一族の墓所

JR東海道本線の湯河原駅前ロータリーに土肥氏館趾の石碑と土肥実平夫妻の銅像が建っています。ここから成願寺へは徒歩10分ほど。背後の山を登っていけば、頼朝が身を潜めたとされる「しとどの窟」に通ずることが分かります。実平は熟知する自領の山に頼朝を導き、難なく敵の目から逃れることに成功したわけです。

(公開日:2023-11-05)