
相模国の有力武将である波多野氏は、武門の勇として知られる秀郷流の末裔で、前九年の役に源頼義に従い討ち死にした佐伯経範の代から源氏の家人でした。経範から四代の子孫に当たる義通は摂関領である相模国波多野庄を所領とし、頼朝の父義朝の家臣として保元の乱に参戦しました。また、義通の妹は義朝に嫁し次男朝長を儲けます。
波多野氏は代々在京活動を行い五位に昇る家系です。そのため朝長は母方の家格により従五位下、中宮大夫進の官位官職を得ます。一方、長兄義平の母は相模国の有力武将三浦義明の娘でしたが、家格は低く無位無冠、よって義朝の嫡男は朝長と目されていました。ところが京へ上った義朝は、熱田大宮司家の娘を娶り頼朝が生まれます。頼朝の母方は四位に昇る在京貴族であり、波多野氏をしのぐ家格ですから、嫡男の座は頼朝に傾きます。おそらくこれが原因で義通は義朝と不和になり、保元三年(一一五八年)に京を去り波多野郷に住んだと『吾妻鏡』治承四年十月十七日条に記されます。
頼朝と朝長の嫡男争いは、平治の乱で義朝と朝長が共に討ち死にし、頼朝は伊豆国へ配流されるに至り対立理由は消滅したかに見えました。それから二十年後、平家打倒の挙兵を準備する頼朝は、波多野義常(義通の嫡男)に帰参を求めますが拒絶されます。これに怒った頼朝は、富士川合戦へ向かう途上に追討軍を派遣すると、その到着を待たず義常は松田郷で自害しました。大昔の、しかも父親同士の確執に義理立てしたせいで命を落としたのですから、義常は無念だったでしょう。
しかし、この一件で波多野氏が滅亡したわけではありません。波多野庄は義常の叔父である義景が継承し、その後は義常の弟忠綱が実権を握ったそうです。その当時に居館があったとされる「波多野本庄北方(同、文治四年八月二十三日条)」と推定される寺山に写真の波多野城跡があります。また、頼朝が伊勢国において志田義広を誅殺した際(同、元暦元年五月十五日条)には、頼朝軍の大井実春や山内経俊らに混じり、波多野盛通(義景の子息)の名前も挙がりますし、義通の弟経家は壇ノ浦の合戦に参加している(同、文治元年四月十四日条)など、波多野一族は頼朝の御家人として命脈を保ちました。
頼朝に滅ぼされた義常の松田郷は大庭景義の領地とされ、義常の嫡男有常は囚人として景義に身柄を預けられます。それから七年後(同、文治四年四月三日条)、鶴岡八幡宮の臨時祭で行われた流鏑馬に召された有常は見事な騎射の腕前を披露します。これに感心した頼朝は亡父の所領の随一(おそらく松田郷)を有常に返還しました。この粋な計らいは、不遇の歳月にも腐らず武芸の鍛練に励むことが武者の心得なのだと、頼朝の御家人たちに向けた訓示でもあったのでしょう。
秦野市寺山の波多野城趾は畑地の中に忽然と現れる史跡なので、近くに駐車できる場所やトイレはありません。
(公開日:2026-05-30)