俣野景久と駿河国軍の出兵
『吾妻鏡』の八月二十五日条は「大庭三郎景親は武衛(源頼朝)の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた」という一文で始まります。この前日、頼朝らと箱根神社の永実宿坊で夜を明かした時政は、夜が明けると「山伏の通る路を経て甲斐の国に向かわれた」のですが、途中で引き返してきたことは前述しました……
『吾妻鏡』の八月二十五日条は「大庭三郎景親は武衛(源頼朝)の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた」という一文で始まります。この前日、頼朝らと箱根神社の永実宿坊で夜を明かした時政は、夜が明けると「山伏の通る路を経て甲斐の国に向かわれた」のですが、途中で引き返してきたことは前述しました……
『山塊記』は「平安時代末期の公卿中山忠親の日記」(『広辞苑』)です。治承四年九月七日条に、上野国の有力武将新田義重が忠親の兄花山院忠雅(平清盛とも)へ宛てた書状が記されます……
以仁王の乱を経て東国で勃発した反平家の軍事行動は、京に暮らす人々にはどのように映っていたのか、貴族の残した日記から推察してみましょう。北条時政を指揮官とする仲綱残党軍が伊豆国で挙兵したことは、九条兼実の日記『玉葉』の治承四年九月三日条に記されます……
北条時政が繰り返し接触を試みた甲斐国の源氏勢力について西川広平編の史論集『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』(戎光祥出版)に基づいてまとめてみます……